「無悪」の名の由来

無悪 県道上中田烏線から若狭梅街道に入ると、左前方にサツキで構成された「サカナシ」の四大文字が目に入ってくる。若狭トンネル入口の両側の山すそに沿うように40戸ばかりの小さな集落がある。

 これが無悪集落である。「無悪」と書いて「サカナシ」と読むのだが、予備知識がないと10人中10人が読めない難読集落名である。

 いったいどうしてこんな難しい読み方をするようになったのだろうか。多くの地名に大抵何らかの語源説が付随しているようであるが、この「無悪」の名の由来についてもこんな話が伝えられている。

 無悪集落の北端にある無悪山安楽寺は、鳥羽谷における古刹でその「縁起」には、平安時代の公郷であり学者でもあった小野篁が当集落に一時滞在したこと、篁の念持仏であった木像聖観世音菩薩を本尊として安置し安楽寺を開いたことが述べられている。

 小野篁は遣隋使として有名な小野妹子の子孫であり、書家として名高い小野道風の祖父にあたる人で小野小町にも血がつながる小野一族の出身である。

 「縁起」にも記されているが、篁は承和5年(838)に遣唐副使に選ばれたが病気を理由にその任に服さなかった。遣唐使を諷する漢詩「西道謡」を作ったため嵯峨天皇の耳に入り逆鱗に触れ死罪になるところを免じて隠岐島へ流されたのである。

 しかし、承和7年(840)には罪を赦されて召喚され、京に帰って本位(元の位)に復され昇進もしたことが「続日本記」に記されている。小倉百人一首にある「わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟」という有名な句は篁が美保の関から隠岐へ向かう途中、京の人に詠んで送った作品で古今和歌集に入っている。

 篁は博学の天才であったため、そのことに因む数々の説話が鎌倉初期の著名な諸書に見えている。その中に嵯峨天皇の御時に「無悪善」という落書があった。これを篁に読ませたところ「さが(悪)なくば善(よ)し」と読んだため天皇の機嫌が悪くなったという話が出ている。地元ではこれは篁の作った謫行吟(たっこうぎん)にあった言葉であるともいわれている。ともかく篁とも関係の深いこの語句「無悪善」から集落の名が「無悪」と名付けられ、「サカナシ」と呼ぶようになったと語り伝えられている。

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