安楽寺の由来

安楽寺「野相公の里 無悪集落史」(高橋利男氏著)より

 無悪集落の北端、堂山の山すそ(字蓮池12-1-2)に安楽寺がある。当寺は元法相宗にして中世には天台宗(一説には真言宗とも)であった。慶長16年(1611)8月17日総持寺輪番地常在院第7世心勇建和尚によって創建されて以来、曹洞宗に改宗し若狭町田上の常在院の末寺となっている。

 「日本社寺大鑑」(昭和8年9月名薯刊行会)の寺院篇には約4万の寺院が紹介されているが、その中に安楽寺のことが次のように記されている。

 「無悪山と号す。小野篁の開基と云う。沿革の詳細不詳なれども現に地方随一の霊場にして区民の崇高厚く、殊に小野篁はハンセン病、雷除の神として俗間に信仰さる。本堂、観音堂、奥ノ院、鐘楼あり。本尊には大日如来を安置す。観音堂(5間4方)の本尊の木像聖観世音菩薩立像1体は国宝にして1本彫成、弘仁時代の佳作なりとす。

 鐘楼の鐘は地方稀有の古鐘にして著名なり。奥ノ院には篁の霊塔あり。寺宝には伝逃殿司筆不動明王像1幅を蔵す。7月17日例祭、9月5日小野篁会を行う。」

 当寺に伝わる「無悪山安楽寺縁起」には、小野篁と安楽寺との関係について次のように書かれている。

 「抑寺山に安置し奉る本尊聖観世音菩薩は、小野篁郷の御念持仏にして行基菩薩の御作稀世の尊像なり。篁郷は小野岑守郷の長子にして人皇53代嵯峨天皇より55代仁明天皇に至まで三仕え玉へし誠忠聖孝の臣なり。仁明帝承和5年故ありて隠岐国へ流され玉ふに郷之を愁ひ、日夜観世音に誓し路中謫行吟と云う詞70句を賦し玉ふ。当時人皆口誦とす。帝之を開きしめして其秀才を叡感ましまし、帰朝を赦させ玉ふに依り、乗船の折節急に西風烈しく東北に押し流されんとせし時、辛ふじ当国田烏浦に着玉へ、直に海士坂を越え当村に在留なし玉ふとき、此観世音菩薩を本尊に安置し自らを開基となり玉ふ。当国三十三カ所の第三十二番札霊場なり。後朝廷の召に応じ帰路本官に復し玉ふ云々」

 当時は、古来幾度かの火災にあったが、最も新しいのは明治13年(1880)7月19日の火災である。この火災により寺宝「空海の真筆」などを失ったが、不動明王像の掛け図が1幅残された。

 古老によれば、安楽寺再建のとき、出火したために寺を建てていた大工が火事の知らせを聞いて田上坂の峠までかけあがった。そして、自分が建てようとする寺の建築材が燃えているのを見て悲しみ腰をぬかしたそうである。

 安楽寺本堂は、明治15年5月に再建された。庫裡については、老朽化がひどく、昭和53年2月の区集会にて再建の話が出され、同年3月に解体され、同年12月に大鳥羽木工と契約が結ばれ、新築工事がなされた。そして昭和55年7月2日に落成式を行った。

 なお、安楽寺の看守、住職については記録がまとめられておらず不明であるが、古老などから聞いて判明した方を下に掲げておく。

  • 明治期-竹内清澄、粟谷舜譲、宇那木玄光
  • 大正期-華獄梅令、小川某、八田俊成、高松格州、前田元順(兼務)高峯良仙、三田村朴翁
  • 昭和期-武藤建童、小林碵順、森由道竜、森口龍泉、内山童照(兼務)

 昭和61年より無住となり、直接、田上常在院の末寺として御世話になっている。

①観音堂

観音堂 江戸期に書かれた「若州管内社寺由緒記」には次のように記されている。

「一 無悪山安楽寺 正観音此堂は古へは大伽藍にて御座候由百五六十年以前前煙焼仕其跡に三間四方斗板葺の堂建立仕候面此廿五年以前迄御座候へ共是又及大破只今は寺と一所に本尊観音脇立二体御座候余略

 一 観音鎮守若王子 此社及大破候を近年健立仕候

 一 観音二王門 此門六十年以前に小浜妙興寺へ二王共に売申候処在所へ殊の外たたり候故 又 其跡に一間に弐間の門を立二王の像も仕候而御座候(後略)」

 このように観音堂も度々火災にあったようで、近年では明治13年(1880)7月に罹災した。現在の観音堂は、明治23年(1890)8月2日に建立されたことが棟札に記されている。

 棟札には「大工棟梁-藤田喜太郎、藤田精八 脇司-畑中伊兵衛 後司-森口庄兵衛、橋本権蔵 棟木棟梁-高橋周蔵、橋本五郎右エ門 脇司-岡野喜三司 後司-深水権蔵」の名が記載されている。また世話方として「岡野平太夫(区長)高橋市右エ門、中嶋助太夫、高橋儀兵衛、高橋勇次郎、玉井久左エ門、高田甚太夫」の名が見える。建築に際しては、区有文書の中に4冊の寄付帳が残されている。

  • 長江村-明治二一年一月 総代 中島作太郎 玄米九斗二升余
  • 三田村-明治二〇年 総代 深水忠左衛門 玄米二石三斗一升余
  • 麻生野村-明治二〇年十二月 玄米三石一斗二升
  • 海士坂村-(内容不明)

 また観音堂の柱の根には寄付者の名前の記載されたものが7本認められる。

無悪村の中島助太夫、高田甚太夫、三田村の深水忠左衛門、麻生野村の三宅利太衛、倉見村の香川茂左衛門、岩屋村の六右衛門、黒田村の澤甚右衛門

 このように本村のみならず鳥羽地区の各村や隣の十村あたりからも寄付がなされたことは、当時の観音信仰の盛んだった証ともいえよう。

イ、観音信仰

 ここで観音信仰について少しふれておきたい。

 わが国において人々に礼拝されている仏像は、如来、菩薩、明王、天部の各像に大別されるが観音菩薩は地蔵菩薩と共に古来多くの人々によって拝まれてきたといえよう。「法華経普門品」では、観音は33の姿になって現れることから33種に化身して法を説き衆生を救うと云う信仰が生まれた。ここから三十三観音の信仰が生まれ、これに基づいていわゆる三十三か所観音霊場が考えられるようになったのである。

 西国三十三か所霊場は最も有名であるが、その地方版は全国で160余か所を数える。

 若狭地方における国指定重要文化財の観音像は12体、県や市町村の指定文化財の観音像は9体と多く、当地方は古くから観音信仰の盛んな地域であったと考えられる。

「若狭郡県誌」(牧田近俊1627-1680)という本の中に「若狭国三十三所観音」が紹介されている。その中に無悪山安楽寺の観音堂が入っており

「第十五番、十一面観音、無悪山安楽寺、山城国新熊野に準す」とある。

 この若狭国三十三所霊場の成立時期はわからないが、「建武3年(1335)汲部(つるべ)田烏の両村には観音堂があり、毎月18日に観音講が行われていた(内藤完爾薯「日本の宗教と社会」1978)」ことから地方西国観音霊場の中でも、場合によっては中世まで遡る先行型巡礼地の1つだったといえるのではなかろうか。

 ところが、先述の「安楽寺縁起」の中で、安楽寺の聖観世音菩薩が三十二番の札所だったとあるのは「若狭国西国三十三所」つまり「国西国」といわれ、「若狭郡県誌」に紹介された三十三カ所とは異なっている。両者の構成寺院を調べてみると、前者では真言宗や天台宗が多かったのに対して後者では曹洞宗の寺院が断然多くなっており、順番もかわっている。

 後者では、安楽寺の御詠歌として次の文句が伝えられている。

 ”無悪となにあてならぬ参る身の安く楽しむ寺の誓いを”

 これら両者間にどのような間違いがあるかわからない。

 また、最近「新若狭三十三番」が出来たが、この中へは安楽寺が入っていない。

 いずれにしても、山門前の灯篭には「観音寺」と銘が入っており、蛭谷川沿いの道しるべには「観音まで一丁」とあったことなどから、往時安楽寺観音堂には多くの巡礼者が訪れたことが推測されよう。

ロ、観音御開帳

収蔵庫 現世利益の仏として宗派を問わず信仰されている観音さん、正しくは観世音菩薩と呼び、六観音、七観音が代表であるが、その総元は聖観世音(正観音ともいう)とされており、秘仏とされている。33年に1度ご開扉され、その中間の17年目毎に中開き大祭が行われることになっている。

 平成11年は中開きの年にあたり、秋10月16日から18日にその供養が厳修された。

 観音さんの左手に結ばれた、仏に導かれるというゆかりのある善の綱が延々数100mに及び、その端は若狭梅街道の地下道にまで達した。秋晴れの下、近郷近在の300名を超える老若男女がその法縁にあやかろうと参拝された。

 開閉扉の歴史はよくわからないが、区有文書にある数少ない記録をもとに20世紀のあゆみを調べてみた。

  • 明治34年(1901)7月17日~18日 開帳
  • 明治36年(1903)8月7日 閉帳
  • 大正6年(1917) 中開き
  • 大正8年(1919)7月16日~18日 閉帳
  • 大正11年(1922)9月23日~25日 国宝指定報告祭并に開帳
  • 大正14年(1924) 閉帳
  • 昭和8年(1933)9月17日~18日 中開き
  • 昭和10年(1935)7月17日~18日 閉帳
  • 昭和25年(1950)4月17日 開帳
  • 昭和27年(1952)9月4日~6日 閉帳并に天満宮1050年祭
  • 昭和41年(1966)7月17日 中開き
  • 昭和43年(1968)7月17日 閉帳
  • 昭和57年(1982)10月16日~17日 開帳
  • 昭和59年(1984)10月17日 閉帳
  • 平成11年(1999)10月16日~18日 中開き

②安楽寺の釣鐘

安楽寺の釣鐘 安楽寺の釣鐘は、古老によれば約300年前、高橋四郎右衛門が1建立で黄金30両をいれて造られたそうで、大変音色がよくて鳥羽谷はもとより遠く八丁橋あたりまで聞こえたという。先述したように「日本社寺大鑑」(1958)に「地方稀有の古鐘として著名なり」と記されている。しかし、残念なことに先の戦争が終わる頃に戦争物資用達のために召集となり、赤タスキをかけて供出され、現在は鐘楼堂のみ残っている。

 釣鐘は菩提寺と共に無悪の歴史に生きてきた貴重な文化財であり、それを知る集落民の心奥にその余韻がさまざまな形で生きてきたにちがいない。先祖が郷土無悪集落の平和を祈念して造った釣鐘が終戦となっても帰らず、さぞかしわが国の平和の鎮めとなっているにちがいない。

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